昭和五十一年八月二十日
御理解第八十四節
驕りがましい事をすな、ものを細っても永う続かねば繁昌でないぞ。細い道でも次第に踏み広げて通るのは繁昌じゃ。道に草を生やすような事をすな。
自分で驕りがましい事をしておると思はんでも、迂闊に驕りがましいと同じ事をしているのじゃないでしょうかね。いわゆる驕りがましい事をしていることです。
私はちゃんというとくんですけど、私が大変汗かきですから冷房を入れさせます。けれども私が御祈念が終わったら切る様に云うてあるんですけど、忘れておるのか迂闊にしておって私は必ず冷房を切って貰い御祈念が済んでから切りにいかんならん。それもそこだけカチャと切っただけでは本体が廻っとりますから、もう一時間夏の冷房、金額にするならもう大変な金額です。けどそれがいくら金額であろうがそれが必要であるなら許されます。けれどもそれを迂闊にしたりしては驕りがましい様な事はと言う事があろうと思います。迂闊にしておる。私が毎晩廻って来るともう、何というですか、東脇殿の扉が開いておったり、電気がついておったり、何処か一カ所位ある。そして昼は寝ておってから晩に、夜中に出て来てからバタバタする人がある。とにかく私は昼の内にかたずけてから、風呂にでも何にでもそうです、もう夜も夜中もないようにやっとる。それは恐らく熱いお湯も出さんならんだろうし、ちゃっと何時から何時までとキッチとした様に出来んもんだろうかと。もう本当に迂闊にとか何とも考えんなりにと言うことはやはり驕りがましいと言う事と迂闊に驕りがましい結果になっておる。勿論自分が気が付いてからなら、なおさら許されないことですけど、これは分に不相応だと思うたら、分に相応な、特に只今修行中と云ったような思いで信心の修行を皆さんなさっておられる只今修行中の看板を掛けとる様な人達は、なおさらそう言う細かい所に心を配らせて頂かんとそこから迂闊な事になってくる。そこから道に草を生やす様な結果になってくると思うです。
それが生かされる、それがお役に立つ。それならば私は電気なら電気でも、それから全館明々と点けてもかまわんと思う。けれども迂闊に消し忘れたり、あれは細か電気じゃけん良か良かと云った様な事でもう本当にですね、もうこれは本当に些細な事ですけれども、朝起きてそして手洗いさせて貰う時に、もう一寸の時間でも私は大きい電気を私は点けきらんです。それが性分になってしもうとるです。だからそれが性分になってしもうとるから、ケチンボと言う様に見えるようになっとるかもしれんけど、私はケチンボじゃないと思う。何故かというとそれよりか沢山物を使う時に一つもそれが惜しいとも思わなければ、いけないとも思わない。必要な時ならだからケチンボではないと思います。やはりもう迂闊ですね。信心の修行中の者がそういう迂闊な事をする。それではそこからだけでもおかげが漏れるです。そこから草が生える様な結果になると私は思わなければいけないと思う。
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昨日綾部さん達が親子で参って見えてから今度の大祭で大変おかげを頂いて、今、国東の方へ縁に付い取られる長女の絹子さんが今度赤ちゃんが出来られたけど、お乳がもうほんの三分の一しか出らん。三分の一しか出ないと言うて困ったと言うておられる。丁度大祭の前日に初参りが親子四人連れでありましたが、それで御大祭にお参りが出来ない様な風に言われるのを、あんた達はお願いするときばっかり参ってから、もう本当に大祭と言えば神様へのお礼のお祭り、同時に一人でも多くの信心させて頂く者が人を導いてお参りをする絶好のチャンスと言われておる。普通は合楽示現活動が出来なくても大祭のような時には、なら親戚の人に話すとか、近所の人にもそれを伝えるごとしてお参りをせんならんごとあるときに、日頃おかげを頂いとって大祭の様なときに参らんと言う事があるもんか、と言うてお参りさせた。そしたら昨日あちらから電話が掛かってもう今度大祭から帰って大変おかげを頂いた。と言うのは途端にお乳が沢山出るようになったというのです。それから晩夜泣きしてから、どうにもまあ私共まで寝られなかったのが、おかげ頂いてから寝る様になった。もう本当に広大なおかげを頂いた。お礼申し上げてくれと言うて電話が掛かってきた。と、ね。お粗末にすると、お粗末にしないとはそんなに違うのです。大祭なら大祭をもう明くる日詣りゃよかとか、いつも詣りよるけんでなくて、大祭は教会の比礼を表すもの、この前の御大祭には、千名だったものが今度に御大祭は千何百名だった。今度はまた百名位、何百名という位にです。そう言うところに思いを置くことが合楽教会、合楽示現活動に参画すると言うのはそう言うことなのです。当然日頃お参り出来よって、でき出来んなどと云うことは、もうこんなお粗末御無礼な事はない。そこのお粗末御無礼にしよるところを、お母さんのおかげでお参りが出来た。おかげで沢山お乳が出るようになった。と言うようなおかげを頂いておる。だから必ずおかげに繋がるのですからね、ですから本当にお粗末御無礼があってはいけんです。だからおかげが繋がると云う事はその反対のこともまた言える出す。お粗末御無礼にすれば頂こう頂こうと思うても頂けんようになるです。お粗末にしないああそうだと気が付いて、お参り、お粗末にしなかっただけでおかげを頂くのですから、しかも奇跡的なおかげを頂くのですからそれの反対の事になると、頂くおかげもそこから減ってしまっておると云うことになるでしょうが、ね。これは信心の上によくよく私共がよかよかで、私共が驕りがましい事になっておったり気が付かずうっかりして驕りがましい事になったりしておるような事をまず調べて見る必要がありはせんでしょうか。
次に綾部さんが言うておられましたが帰ってから絹子さん達夫婦に今日のお説教はどんなに思いなっさたですか。私は本当にお説教を頂いてから有り難いと思うた。俺もていげいこうやって頂こうと思いよったばってん俺がとこまで聞こえんじゃった。そげんいや本当に隅の方に居るもんで、お説教が聞こえんじゃった、と言うて綾部さんが言うて戻られた。また絹子さんもそう云うような御理解を本当に有り難いと思うた。帰ったらおかげを頂いた。主人は折角お参りをしたけれども、おかげと云うならばおかげを頂く事が出来なかった。御理解もあすこ此処で聞こえんじゃった。と申しておりましたが隅から隅まで聞こえるように御大祭の時にはして行かねばいけませんなあ、とお届けじゃないけどそんなお話をして帰られました。丁度此処では信心の研修を先生方がやってました。○○者が発表するとボソボソと小さい声で云うから、私がこうやって聞き耳を立てて、そばだてて、その時にですね、綾部さんの云われたのにひらめいたんです。ははあ聞き耳を立てる事が大事だなと言うことです。お話を頂いて、だから本当を云うたら膝つきあわせて聞けば眠ろうと思うても眠られんでしょうが。そしてやっぱり私の顔を見よって、こうやって見たり聞いたりしよるから、やはりそれだけ分かるけど隅の方に居る者には、やっぱり眠っとる人は隅に居る人ですよ。そりゃもう私の息子達は一番前の方に居ったちゃ眠りますもん。やっぱり遠慮がなかけんでしょう。堂々と眠ります。ほんな前におったちゃ、これはもう安心のおかげを頂いとるです。やっぱり助かっとるです。おかげでしょうけれどもね。折角御理解を頂こう思いながら隅の方におるもんだから耳に入らなかった。そして本気で聞き耳を立て昨日研修しながら申しました。御理解を頂くときは耳に手をやって、こうやってごらん、もう他の事は入ってこん。こうやったから余計聞こえると云うことは絶対ないですよ。少しは違うかしれんばってん、然しこうやって、おくだけでここだけに集中するです。散漫にならないです。だから隅々で聞こえんじゃったというなら、それでも聞こえなかったと云うなら押し分けてでも前の方に出てくるような熱意が要ると思うです。私は折角のこう云うありがたいご馳走ですよ、大祭後のお説教は御直会だと云われておる。最高のその最高のご馳走をそのままにして帰るのですからやっぱり驕りがましいことになりましょう。帰ったばかり何じゃかんじゃわからなかった。何じゃかんじゃ分からなかった人は何も分からんなりに有り難いと思った人は、今云う様にいろんな眼が明かなかった人が目が開いた、ちんばが立ったりする様に、今度もやっぱり何人もそんなおかげがあった。御大祭で一生懸命頂いたら有り難い、もう暑さも忘れて頂いたという人達はおかげをいただいとるです。それはお粗末にしないからです。いくら信心しよってもですね、もう云うなら親先生の云われることはいつも同じ事だという風に思うとる事はいよいよもってこれは驕りがましい事と思うですね、これではおかげは受けられない。
眠気が付いたなら耳の所に手をいっちょこうもってきてですね、それだけよう聞こえるではなくて、それだけに余計にあつまってくるです。集中しなければね、心に溜まらんです。散漫になってくるです。
信心の姿勢と云うことを昨日頂いたが、お道の信心は何処までも話を聞いて助かる道ですからその話しに心が集中する。それこそ全身耳にして御理解を拝聴する。眠気が付くなら前の方に出てからいただく。隅の方から聞きおるなら、聞き耳を立てるおもいで耳に手を当てるくらいな気持ちが必要なんです。
驕りがましい事をすな。自分の分不相応な事をしてはそれは驕りがましい事になります。借金してからまで良か着物を作ろうというのはいよいよ驕りがましい事です。ですからどんな良い着物であってもそれが平気で買えれるならばその人に対しては、もう驕りがましい事でも贅沢でもないのです。一万円の給料しか取っておらんのに一万一千円の生活をするならもうこれは驕りがましいことです。自分の頂いて居る範囲で生活が出来るという位な一つの気持ちが段々おかげが頂いて行けれる事になるのです。
昨日合楽だよりの原稿が出来たからと言うて、此処で皆一通り聞かせて頂いたです。けれどもなかなか充実した内容が出来ておる中に、奇跡シリーズの原さんのが今月分まで続くわけです。その中に一円のその日暮らしから、十円のその日暮らしが出来るようになり、百円のその日暮らしが出来る様になる。その事のおかげが出ておりました。お互いにね、そういうおかげを頂かなければ駄目です。ですから一日だって食べじゃった、と言うこともなければ一日だってもう今日はお金はないときだって何処からかお初穂だけは集まってきた。という様な原さんのお話が載っております。だから常日頃です、驕りがましいことをして居って、サアー足らんごとなったけんやあやあ言うてお願いする事は、一寸実はおかしいです。日頃贅沢をするから、だから本当に「要るほどは風が持って来る木の葉かな」と言った様な事が併用して記事の中にありますが、もう自分の力が出来れば出来ただけ集まってくる。それで生き方を生活なら生活をそれぞれで一つの標準を作っときますと驕りがましい事には絶対ならない。然もそれが信心が進んで行けば行く程にそれが一円のその日暮らしから十円のその日暮らし、十円のその日暮らしから百円のその日暮らしが出来て来る。その日暮らしそのものが素晴らしい有り難いんだと言うわけです。だからそこに例えば途中にです、ならお初穂が切れたとか、生活費に困る、借金してこにゃならんと言う時にはです、もう常日頃のお粗末御無礼、驕りがましいとは思わなかったけれども驕りがましい事をしておったと云うことに気付かせて貰うて、お詫びをさせて貰って願うて行くと言う様なおかげにならんと言うことがわかります。
信心しよってから例えば生活費に、例えばお初穂なんかに事欠く様な事が絶対あって良かろう筈がない。神様が見通し聞き通しの方だからそれがもし切れたりするような事があるならばです、日頃そういう驕りがましい、、、、。だから信心しおりゃいつも粗末なものを食べて粗末なものを着とかんならんと言う事では決してない。おかげを頂いたら頂いたでです、人が十万しか取らんときに百万も儲からせて頂くようなおかげを頂いたらそれは百万使っても、それは贅沢じゃないというのです。
どうでも私は合楽で信心させて頂く者はこの辺の所を素晴らしい体験が生まれて来るですからお粗末御無礼になる事になっておかげをよう頂かん。本当にお粗末になろうとするところを、ふと気付かせて貰うてそれが出来た時にもうおかげに繋がる。粗末にすると云うこと、粗末にしては此の位の事は良か良かで、お粗末にしよるから道に草を生やす様な結果になってそこからおかげを落とす様な結果が生まれて来る。
もう一つ分相応と言うことを分からせて貰うと同時に、その分相応でも私はいかに分相応な生き方をしよると言うておっても、教えを頂いて、また教えの鏡を立てて見ると、やあ本当にお粗末だなあ、御無礼だなあ、こう云うことは大体許されん事だなあ、と言うような事がいくらも出て来るです。お互いそこんところを充実した、云うなら思い方でおかげを頂いて参りましたら、もう早速おかげが表れて来る出す。だからおかげが表れて来るその反対のお粗末にする事は幾ら願ったちゃおかげにならん時はです、そういうお粗末御無礼があってはおりはせんかと振り返ると言う事を、気付かせて貰うて此処からおかげが漏れましたばいのと分からせて貰うことになるとそこにおかげを受けとめる事が出来るのですからいよいよ驕りがましいことはいけません。いや驕りがましい人が見ても自分が驕りがましいと気付かぬ内にです、気付かぬ中に驕りがましい事が迂闊に出来ておる様な事はないか、今日はそう言う事を真にして聞いて頂いたですね。
どうぞ。